三手の手習い




佐助の師の客として来たその男は、忍びの力を試すには何がいちばん分かり易いかと、佐助の目の前で師にそう問うた。
すると師は苦無を三つ、佐助に渡した。
「全く同時に、同じ強さで、三つの苦無を柄まで木に打ち付けるには、腕が三本必要だと言います」
促され、佐助はふたりの前に進み出、三つの苦無を右の手先だけで器用に回した。
小さく息を吐いて先にある木を見据え、右腕を振り上げる。




戦があるのだという。
日の本を大きく分かつ、戦が。




* * * * *


主の部屋の様子を見て、佐助は顔を引きつらせた。
佐助と同じ忍びたちがこの様子を見たら、何と言うだろうか。そこには彼ら忍びが命に代えてでも、と守りながら運んだ密書や、東軍の者ならば喉から手が出るほど欲しい情報の書かれた書状が、無造作に散らばっていた。
「本っ当にあの人は…旦那ぁー!」
大声で佐助が呼ぶと、庭先で木刀を振っていた幸村が振り向いた。
「どうした、佐助」
「どうした、じゃありませんよ!鍛錬はいいからこの書状の山片付けてください!」
「うむ…頼む」
「捨てるぞ!!」
怒鳴ってみたが、既に幸村の耳には届いていない。

第一印象では、確かに真面目そうに見えたんだ。

佐助はこれ見よがしに大きくため息をつきながら、文の戦場と化している部屋へ向き直った。ひとつひとつを手に取り整頓していると、見たことのない筆跡が佐助の目に入る。
「…」
書に詳しいわけではない。しかしその流れるようになだらかな書は目を引いた。
幸村の書く字は闊達としてのびやかで。主の父、昌幸の字体ははっきりとして細やかで。文字というのは、不思議と書き手の性質を映し出すものだ。
こんな優しげな字を書く人でも、戦をするものなのか。
眺めながら、無意識に自分の知る楷書体にあてはめてみるが、どうにも難しい。
「先書ニも、申候…関東之、儀…」
「佐助」
「うわっ?!」
突然背後から声をかけられ、佐助は驚いて飛び上がった。見ると鍛錬をしていたはずの幸村が、木刀を肩にかついだまま笑いかけ、佐助の手の中の書状にある花押を指した。
「このお方に書を届けてきてくれ」
筆跡の主は、独眼竜の異名もつ武将、伊達政宗という。


* * * * *


(隻眼、隻眼…)
奥州は伊達の居城に着き、佐助は廊下を渡る人々を窺っていた。
独眼竜は幸村と同じ年の頃で、隻眼という分かり易すぎる特徴がある。やはりというべきか、その人物はすぐに見つかった。佐助が独眼竜の書簡から受けた印象とは、随分とかけ離れた雰囲気ではあったが。
曲者扱いされては面倒なので、佐助は独眼竜がひとりになるのを待ち、その目の前に音も無く下りた。膝をつき、頭を低くすると、下げた視線の先に独眼竜の足が止まった。
「信州上田城は真田の使い、猿飛佐助と申します。主の書状を届けに参上仕りました」
静かに言って、顔を上げないまま書状を差し出した。しかしどうしたことか、それを受け取ろうとする気配が無い。訝しく思い、佐助が顔を上げようとした時だった。
「小十郎、いるか」
一瞬、佐助はそれがどういう意味なのか分からなかった。何故突然人を呼ぶのだろうか。
静かな足音が近寄ってくるうち、佐助はようやく理由に思い当たり、耳の辺りがかあっと熱くなった。
一国主が、忍びの手から直接書を受け取るなど、普通ならば有り得ないことである。幸村という、細かい事にこだわらぬ主に仕えていた為か、そういった上下の差に鈍感になってしまっていた。
とんだ失態だ。
独眼竜はその差をおそらくは無意識に、しかし残酷なほどはっきりと佐助に示していた。
幸村の書簡が佐助の手から離れた。顔を上げてみると、書簡を受け取った小十郎と呼ばれた家臣がいた。
独眼竜はすでに佐助に背を向け、廊下の先の曲がり角へ姿を消すところだった。

これが当たり前なのだ。
頭では分かっているのに、腹の底がぎりぎりと熱く、表情が歪んだ。
小十郎へぞんざいに頭を下げると、佐助は逃げるようにその場を去った。

あれほど優しげな字を書く人は、自分には見向きもしない人なのだ。


* * * * *


「佐助、すまんが政宗殿にこの書状を」
「…」
「届けて、もらえると、嬉しいのだが…」
年端も行かない忍びの形相に、主である幸村は口を噤んでしまった。
初めて奥州へ書簡を届けてから半年、その間も何度か幸村は佐助に独眼竜への書簡を任せていたが、任を重ねるごとに佐助の表情は険しくなっていた。
「俺じゃなくてもいいでしょ、別に」
「それが才蔵は近江へ行っておってな、足の速いのはお主だけなのだ」
「俺が近江に行きます」
「いや、だから、もう行ってしまったのだが…」
頭を抱える主を見ると悪いとは思うが、こればかりは我慢がならない。何度書状を届けに行っても独眼竜の態度は変わらず、思い返すとまともに顔を見たのは、初めて奥州へ行った時廊下で見かけたのが最初で最後だ。あとはひたすら、上等な着物の背中ばかり。
「嫌ならこれが最後でいい、行ってきてくれ」
幸村の頼みに、佐助は憮然としつつ書状を受け取った。

(これが最後)

独眼竜の居城が見える高い木の上から、佐助は幹に背をもたせて苛立ちを抑えようと口の中で呟いた。
これを、いつも通り片倉小十郎が通る廊下に置いて、彼が拾い上げるのを見届ければ、それで終わり。あの腹立たしいばかりの背中も、認めるのは悔しいが、豊かに、平穏に治められた奥州も見納めだ。夕日に染められた城の廊下に人影が渡るのを見て取り、佐助は木を下り始めた。
城の塀を越え、庭に敷かれた玉砂利を踏み、顔をあげた先の影にぎくりとする。
「来たか」
ひどく不機嫌な声だった。
ふっと吐かれた煙草の煙の向こうに見えるのは、半年前に見た隻眼。何故、と思い視線を廊下へ走らせれば、少し離れたところで竜の腹心が可笑しくて仕方がないのを堪えようと拳を口許に当てている。
どういうつもりだ。
意味も分からぬまま、それでも腹が立ち、佐助の表情は自然と歪んだ。それに構わず、否、気付きもしていない様子で、独眼竜は素気なく「来い」と一言言って歩き出す。
相手の意図が分からず逡巡していると、独眼竜が隻眼をこちらに向ける。
「何してんだ。ついて来いって言ってんだよ」
「何故です」
努めて冷たく聞こえるように、こちらの戸惑いを悟られぬように。佐助は出来る限り声を低くした。
「先の書状の返事がある」
「いつもは早馬でなさるでしょう」
よく言う。返事が渡される前に帰ってしまうのは自分のほうだ。
心の内の冷静な部分が佐助に告げるが、聞こえないふりをして独眼竜を見据えていると、ふいにその口の端がにっと上がった。
「ああ、無事に届ける自信がねえか?そりゃ悪かった。なら早馬に届けさせよう」
やすい挑発だ。分かっている。でもどうしろって言うんだ?無視しろとでも?
じりじりとしながらも佐助は独眼竜の後を歩いた。見慣れた上等な着物の背中に、ふととんでもない考えが浮かんだ。

油断したところを、掻っ切ってしまえ。
どうせ次の戦は不破関あたりが主戦になるのだ。こんな東の果ての大名に何ができる。
どうせこの男は、主の幸村も、自分のことも見ていないのだ。

そこまで至って、佐助は自分が考えていることに背のあたりがぞっと粟立った。
そんなことをして何の意味があるのだ。今日でこの任は終わりだと分かっているのに。
…違う。
分かっているから、なのか。

独眼竜の自室に入り、頭を下げて書簡を受け取っている間、佐助はこの異常な憤りの訳を考え、ぼうっとなっていた。
これほど自分の感情を抑えられなかったことが、今までにあっただろうか。まるで心だけが他人になって、一人歩きしているようだ。
「顔を上げろ」
独眼竜の一言一句が、佐助の知らない心に石を投げ入れ、波立たせる。

「今渡したのが幸村に宛てたもんだ。で、こっちが手前用」

独眼竜が、とびきり大きな石を佐助の真ん中に投げつけてきた。差し出された蛇腹の上等な紙を凝視したまま、息が止まり、体が凍ったように動かない。
(誰に、だって?)
それでもどうにか口を開くと、筋が引きつり喉元からひゅっと息がなりそうになった。
「…目の前にいるんですから、口頭で仰せください」
多少無礼な言葉遣いになったが、独眼竜は怒った様子も無く、漢字が読めないのかなどと見当違いなことを言いながら、はらりと佐助の目の前にその書を広げて見せた。そこにあったのは、幸村の部屋で見た書と同じ、どこか優しげで流れるような文字。
あぁ。祐筆などではない。やはりこの人の字なのか。
「これが手前の名だ。姓はあんのか?…まぁ、知らねえから勘弁しろ。ここからが内容だ」
文面を追いながら、幸村の部屋で見た書と違い、花押がないのに気がついた。確か、主は花押を指しながら「この方に」と言ったはずだ。
「……アンタの名は?」
思わず聞いてしまい、佐助は思い切り後悔した。ちらりと独眼竜の表情を窺うと、思った通りこちらをからかうように笑っている。
「何だ、気になるか?」
「…っ!漢字くらい知ってるしアンタの名だってどうでもいい!こんな雀の躍り足、読めるか!」
叫んだ途端、胸元を押さえつけられたような感覚が佐助を襲った。
もうだめだ。怒られる。斬られる。
この手紙も、取り上げられてしまう。
指先が震えるのは、斬られることが怖いのではない。
息苦しくなる呼吸が、自分の中心に、奥底に抱いた感情の正体をはっきりと示してしまった。
がんがんと鼓動が頭に響く中、からりとした独眼竜の笑い声が聞こえ、佐助は一瞬自分の耳を疑った。
「雀の躍り足か、違いねぇな。分かった、書き直す」
「べ、別にいい」
慌てて紙を取り上げ、自分の焦燥を悟られる前に独眼竜の前から姿を消そうと立ち上がると、その後を独眼竜の声が追ってきた。
「手前みてえな礼儀知らずは嫌いじゃないぜ」
そう言って笑われると、からかっているのか本気なのかすら推し量れず、顔に血が昇る。
「そいつが読めたらまた来い。今度は天下様お墨付きの書を書いてやるよ」
(また来い?何で…)
その場を逃げるように走りながらも、独眼竜の一言一句が、半透明の水面に波紋を広げていった。
ようやくいつも居城を見渡していた木の上にたどり着くと、佐助は呼吸を落ち着け、木の幹に背を持たせて空を見上げた。空には既に星が輝き、山の向こうだけがほんのりと残り火のように赤く霞んでいる。その微かな明りを頼りに、佐助は懐にねじ込んだ独眼竜からの手紙を広げた。
自分の名だと教えられた部分を指先でつと辿ってみると、冷たい空気を吸い込んだ時のように、つんと鼻の奥が痛んだ。

幸村の書く字は闊達としてのびやかで。主の父、昌幸の字体ははっきりとして細やかで。文字というのは、不思議と書き手の性質を映し出すものだと、ずっとそう思っていた。
今も、そうだ。

「アンタの字は、好きだよ」

夕日が消えてしまう前に、佐助はもう一度、その優しげな文字を辿った。










『三手のための教え』の対。佐助視点です。
やってみたかったんです視点違いの話。どんだけ違う話にできるかなぁ、と。
難産でした。orz
(2008/4/4)