空とうつつ




上田城にほど近い拠点のひとつ。
ひとりの忍びが、指先で苦無をもてあそびながら、小さく首をかしげていた。
(有名人だもんなぁ…)
注意は怠らない。しかし殺気を立てて目の前の相手に刃を向けようともしない。
(よくあることだよな。話を聞いてるうちに、なんだか会ったことがあるような気になるのって)
「Hey!てめえ寝てんのかよ」
(あ、怒らせた)
対峙したまま動きを見せない忍びに、苛立った声で隻眼の男が言った。
「OK、死にてぇらしいな…」
「…往詣?」
その妙な言葉も、ふたつ揃っていたらそれこそ我慢ならなそうな生意気な眼も、何故だかどこかひっかかる。
喉元まででかかっている記憶をなんとか引っ張り出そうとしていると、隻眼の男がいつの間にか引き抜いた六振りの刀で切りかかってきた。牽制のために放った苦無はあっけなく弾かれ、忍びは跳躍して後方の木に飛び移る。
懐から手裏剣を取り出しながら、あっ、と突然大きな声をあげた。
「な、なんだよ」
「いやー、思い出した思い出した!そうかぁ、あの時の…」
「てめぇ、なめてんのか」
「違うって。なあ、ひとつ聞きたいことがあるんだけど」
「Ah!?」
「”さんくすあろっと”ってどういう意味?」

三つ子の魂百まで、とはよく言ったものだ。

訝しげに忍びを睨みつける隻眼の男に、木の上の忍びはまるで悪餓鬼のように笑って見せた。


* * * * *


「それでな、忍者は空も飛べるんだ」
「それはそれは、一度見てみたいものですなぁ」
茶屋で後の席から聞こえてくる微笑ましい会話を聞きながら、佐助はゆっくりとぬるめの茶を啜っていた。
(戦…。戦、ねぇ…)
荒れているのは上方だけじゃないか。
夏の美しい青い空に、鳶が一羽、ゆったりと弧を描いて飛んでいる。眺めているうち、その上方の戦すらまるで夢のことのように思えるほど、偵察にと遣わされた奥羽の地は穏やかだった。
「手裏剣ってどんなふうになってるんだろうな…手を切ったりしないのかな」
「さて、きっとたくさん練習するのでありましょうなぁ」
間延びした会話に、眠気を誘われる。
今回の奥羽偵察は無駄骨だ。
上杉軍の動きが気になる武田軍にとって、その周囲の国々がそちらに従属するのは好ましいことではないのは分かる。
(だからって…こんな簡単にこっちに遣わされてちゃ体力がもたないっての)
手裏剣が欲しいと駄々をこね始めた子供と、それをなだめる声が、いよいよ子守り歌のように佐助の耳に響いていた。
眠気を追い払おうと佐助が茶を啜ると、小さく肩を叩かれた。振り向くと、人の良さそうな、どこかくたびれた表情の男と目が合った。
「すみませんが、ちょっとだけ手裏剣を貸していただけませんか?」
「ぶっ」
「Dirty!」
「おっと、大丈夫ですか?」
心配そうに言いつつも、そのくたびれた表情の男は見事な所作で佐助が噴き出した茶が隣の子供にかからぬよう袖で隠している。
佐助は慌てて汚れた手ぬぐいで茶を拭き、相手に負けず劣らずの人の良い笑顔をつくってみせた。
「あ、生憎ですが、俺も手裏剣なんてのは触ったこともなければ見たことも…」
「またまた、そんな忍び聞いたこともない」
「Is that so?!He is...」
「ええ、梵天丸様、そうですよ」
「……?!」
先ほどまで和やかな話をしていたはずのふたりの会話が、全く分からない。唯一佐助に分かったことと言えば、どうやら自分が忍びであるということがばれたことくらいだ。
こういう得体の知れない連中とは関わらないのが身のためだ。座右の銘を『我関せず焉』として生きてきた佐助は、適当に会釈をして腰をあげた。しかしすかさず佐助の着物を男が掴む。
「な、なんですか?」
「ですから、手裏剣を。梵天丸様のために」
目尻にほんの少し笑い皺を作って笑う人の良さそうな男の顔が、笑尉面のごとく無機質に見える。今頃になって気付いた男の腰にある刀がやたらと目に付く。諦めたように佐助は小さくため息をつき、声を低くした。
「あのねぇ、そんなもん他人にほいほい貸せるわけないでしょう?!」
「そこをなんとか、梵天丸様のためにお願いしますよ」
「しみったれ」
「…」
くそがきめ。
笑尉面の後ろに隠れた子供が、佐助に向かってあかんべをしている。
「綱元、俺こんな弱そうな忍者の手裏剣いらない」
「おや、そうですか?」
「うん、そろそろ帰る」
「…御意に」
語尾の弱い子供の声に、一瞬、笑尉面の顔がどこか悲しそうな表情になった。おや、と思うまもなく、男は勘定を済ませるために席を立った。
「…あいつ、普段なら絶対に俺のわがままなんて聞かないんだ」
小さな声で、子供が言った。
その目は空を見つめたままで、佐助に話しかけているというより、どこか独り言のような響きがある。
「なぁ、あんたは若く見えるけど、もう一人前か?」
「え、俺?…まぁ、仕事はしてるけど」
突然真面目な顔で問いかけられ、佐助は少し口ごもった。一人前かどうかなど、今の自分には分からない。
「業を背負い、業に沈む道だと聞いた。俺にはまだ分からんが…」
ああ、そうか。この子供。

「明日、この名を捨てれば分かるのだろうな」

元服にはまだ随分と早すぎるように佐助には見えた。
京の都から離れたこの地に、戦乱の波は今頃になって届いているらしい。
(…戦、か…)
ふと見上げた先の空はただ青く、鳶の姿はもうどこにもなかった。
夢など、この奥羽の空にも最早ないのだろう。

勘定を終えた男に呼ばれ、立ち去ろうとするその子供の着物を佐助が小さく引いた。
「特別だからね、他の誰にも教えるなよ」
「…」
その小さすぎる手に乗せられたのは、使い込まれた卍形の手裏剣だった。
「...Thanks a lot」
「…ん?」
言葉の意味が分からず佐助が聞き返すと、子供はしかめっ面のまま、ほんの少し耳を赤くして走っていった。


* * * * *


「てめぇとっとと降りてきやがれ!やる気あんのか?!」
「だから、さっきの意味教えてってば」
佐助のいる木を思い切り蹴りながら、隻眼の男が怒鳴りつける。佐助は男に苦笑し、また同じことを問うた。
「”Thanks a lot”ってのは、そりゃ礼言ってんだよ!分かったら今すぐ降りて来い!」
「へぇ…そうなの」

可愛いとこあるじゃない、くそがきのくせに。

「”独眼竜伊達政宗”、ね。業を背負ったくらいじゃ沈まなそうな名前だ」
鋭い指笛が響いた。
一瞬その音に気を取られた政宗に、手裏剣が飛んだ。咄嗟のことに刀を構えることができず、政宗は篭手を顔の前にかざしたが、その手裏剣は政宗にあたることなく、目の前の地面に突き刺さる。
呆気にとられて見上げると佐助の姿は既に無く、青い空に数枚の鳥の羽が舞っている。
「Shit...!」
悔し紛れに地面を蹴ると、そこに刺さった卍形の手裏剣が目に付いた。
「…どこかで会ったか?」
ただ青いだけの目の前の空が、何故かひどく懐かしい感覚を呼び起こしていた。










夏中拍手に置きっぱなしでした。
う〜ん…orz
(2007/7/2〜/9/27)