忘れ扇




「もうじきひと雨来ましょうな」
綱元の声に、庭で煙管を燻らせていた政宗は西の空を見上げた。常ならば美しい緋色が空に広がる時間だが、今日は黒い雲が厚く覆い、庭にどんよりと暗い影を落としている。空を見上げたまま、政宗は細く煙を吐いた。
「いいじゃねえか。夕立でも降れば少しは涼しくなるだろ」
「さて、ただの夕立で済みますかどうか・・・」
何か含みのある綱元の言い方に、政宗はものを考える時の癖で目を細めた。
蝉の音も止んだ薄暗い庭に、低く遠雷が響く。
死にゆく夏は、これほどに静かだったろうか。
「此度の雷雨は上方からでございましょう」
相変わらず耳が早い。
半ば呆れて政宗が振り向くと、綱元はいつも通りの少しくたびれた表情で苦笑した。仕事ですから、と返した男は、まだ四十にならぬというのに所々に白髪が目立った。
「…知らねえな。上方の事なんざ遠すぎらぁ」
事実だった。
奥州を制し、今や百万石にも届くほどの領土を治めたとは言え、所詮は京の都から遠く離れた僻地である。たかだか庭先でこうして細い煙を立ち上らせる程度しかできない自分に、政宗は遥か西の空の雷雲を睨みながら小さく舌打ちをした。
もっと荒れればいい。
そうしてこの地にも雷雨を呼び、狭い領土で乾ききった竜の鱗に水を与えてくれるのならば。
「稲光が強いほど、その作る影も濃くなるものです」
ちらりと政宗がその視線を綱元に向けたが、すぐに空に広がる雷雲へと戻してしまった。綱元の遠まわしな忠告を、どうやらこの主は聞く気がないらしい。
「…ゆめゆめ、ご油断召されませぬよう…」
ため息混じりの綱元の言葉には返事をせずに、政宗は静かに響く遠雷に耳を澄ませていた。


* * * * *


廊下を進みながら、政宗は空を見た。雲の増した空はいよいよ暗く、湿った風が忍び込むように廊下へ流れた。
武田が滅んだ。
その報を、政宗は自らが放った忍びから聞いていた。ひどく後味の悪い最期であった。
信玄が病死した後、武田家を継いだ勝頼という男は、その武勇は父である信玄と比べても何ら遜色の無いものだった。
信玄の代とは状況が違う、と言えばそれまでである。
武田の家臣が次々と離反していったというくだりになると、政宗は苦い顔をした。
内紛の原因は信玄の時代からあったものであろう。それが、未だ基盤の脆弱だった勝頼の代になり、あらゆる怨嗟とともに流れ出た。

自室へ入ろうとして、政宗は足を止めた。異様な影が、ふたつある。
ひとつは、部屋の中で横になり、動く気配は無い。もうひとつは、雷雲の見える窓の近くに背を持たせ、暗がりにあって尚はっきりと暗くあった。
一歩部屋へ入ると、空気は空の雷雲のように重く、蝉が消え音の無い庭のように張り詰めていた。
暗闇に目が慣れると、横たわった影が、政宗に武田の滅亡を報せた忍びであることがわかった。既に息はない。
「てめぇか」
怒るでもなく、政宗が言った。
「てめぇが殺ったのか、猿」
「……久しぶり、竜の旦那」
政宗の問いには答えずに、影が小さく呟くような調子で言った。
「雨、降ってきちゃってさぁ…ちょっと雨宿りさせてよ」
思わず、政宗が低く笑う。
「今更何言ってやがる。散々打たれてきただろうが、長篠辺りからずっと」
影がほんの少し身じろいだのを見て、政宗は自分が太刀を帯びていないことを思い出した。
「…もう知ってたんだ、やっぱり」
霧雨の音すら聞こえてきそうなほどに、静かだった。
妙に現実味の無い暗い部屋の中で、時折響く遠雷だけが、かろうじて耳に届く。

「これから、どうなるんだろう」

その言葉の意を察しかねて、政宗は黙ったまま次を待った。
「大将が死んで、甲斐が消えて、何だか天地がひっくり返ったみたいになっててさぁ…」
「…」
「これからどうしたらいいのか、分からない」
言いながら、自嘲する声が聞こえた。
「どうもこうもねえだろ、あんたは真田に従えばいいだけの事だ」
「や、そうなんだけどさ、」
「ああ」
影の言葉を遮るように、政宗が声を上げ、笑い出した。この暗闇には不釣合いな笑い声のあと、その隻眼が暗い色を増して影を見た。
「嬉しいだろ?」
政宗が一歩、近づいた。窓から入った稲光が、一瞬だけ、部屋の中央に横たわる亡骸をはっきりと映し出した。
これからどうなるのか、と、この影は問うた。しかし、この影が常に誰よりも早く状況を推し量るための情報を手に入れているのだ。それが出来ないような頭ではないだろう。
「そこかしこで戦が始まる。血生臭くなるだろうよ」
「…冗談じゃない」
「冗談でたまるか」
この雷雨に乗じなければならない。この乾いた竜の鱗には、この雷雨が必要なのだ。
「教えてやる。てめぇの不安の原因を。飢えてたんだよ、戦乱に。安定した信玄公の軍略の下では味わうことのできない混沌とした治世に。餓死しかけた狼が目の前に血の滴る肉を置かれて戸惑ってんだよ」
「それは、アンタだろ」
「ああ、俺だ。そして俺はてめぇの暗い部分に巣食っているものと同じ事を言う。だからてめぇは奥州(ここ)に来る」
一気に捲し立て、政宗は影を見る。雷雲が濃くなったためか、影は部屋の暗闇の中で輪郭がぼやけ、目を凝らさなければその中にとけてしまいそうだった。まるで自分へ向けた言であるかのように、政宗は自身の言葉を反芻した。
視線を影から横たわる亡骸へ落とした。言ってみればこの雷雨のいちばん最初の被害者だろう。まだ雷鳴は遥か遠くだと言うのに。
握り締める太刀を、今、政宗は帯びていない。震えそうになる指先を隠すには、拳を握り締めるしかなかった。
「…まだ荒れ始めたばかりだっていうのに、上方はあの有様だ」
影が、小さく言った。
「アンタが俺の暗い部分だって言うなら、俺はアンタが国主としてある為に押し殺した部分かもしれない」


(不安で、仕方がない)


その呟きは静かに響いた遠雷に重なり、影の声なのか、政宗自身の内の声なのか、それすらも分からなくなっていた。










何故か夏は暗い話ばかり書いている気が…。
こう、周りが生命力と活気に満ち溢れていると、その逆を書きたくなるみたいです。
夏の終わりの、物悲しい雰囲気が好きです。
(2007/8/27)