紫紺の界
生まれ、生まれ、生まれ、生まれて、生の始めに暗く
死に、死に、死に、死んで、死の終わりに冥らし
「何それ?」
問いかけるように言ったが、元より知りたいなどとは思っていないのだろう。その気怠い声のした木の上には目もくれず、政宗は弓の弦を引き絞りながら、呆れて小馬鹿にしたように鼻で笑った。
「学の無い忍びからかって何が楽しいんだか…」
「武田は学の無い草なんかこの伊達に送ってんのか」
張り詰めた弦を放すと、空を裂く小気味良い音が響き、矢は政宗が適当に作った粗末な的の中央から三寸ほど離れたところに刺さった。いつの間に隠れていたのか、的の近くの茂みから、音に驚いた子犬が一匹飛び出した。
「大将の体面のために言っとくけどね、アンタらが読むような大層な書物、俺らみたいなのが見る機会なんて無いの」
「言い訳は見苦しいぜ?」
戦場では弓など殆ど引かないため、随分と腕が鈍っていた。夏の照りつける日差しの下、政宗は目に入りそうになった汗を拭い、矢筒から矢を取り出して弦に番(つが)えた。
「大体なぁ、手前が俺に見つかってんのにぐだぐだ居残ってる時点で、信玄公の面目なんてあったもんじゃねえんだよ」
「こんな近くまで忍び寄られたアンタもね」
「Ah、言うじゃねえか」
次に放たれた矢は、一本目より一寸、的の中央に近づいていた。先ほどの子犬が虫に飛びついて遊んでいるのが目の端に映る。政宗はゆっくりと息を吐き、三本目の矢を取り出した。
「三界の狂人は狂せるを知らず」
弦を張り、矢を放つ。
「四生の盲者は盲なるを識(さと)らず」
矢が鋭く、的の中央から一寸離れたところを穿った。同時に佐助の軽佻な笑い声が木の上から聞こえた。
「ああ、もしかして俺様のこと言ってんの?旦那」
的を見たまま、政宗は薄く嘲笑(わら)った。
”狂う”ということを知らない狂人は、自分自身が狂っていることも分からない。
真実を見抜けない者は、そのことを知る由も無い。
「…殺さねえのか?」
唐突に出た言葉に、政宗は自分自身でも驚いた。驚いたが、常々腑に落ちないと感じていたことでもあった。
「さあ…、何?竜の旦那、殺して欲しいの?」
佐助の呆れたような声音に、政宗は目を細めて笑った。
四本目の矢の矢尻を正し、弦に番える。
次は、決して外さない。
「今は無理だね、もう少し…」
「今だ」
佐助の言葉を遮り、政宗が鋭く言い放った。
「一瞬だ…見誤るなよ」
言ったと同時に強く弓を引き、自身が狙いを定めた先を異様なほどに静まった心境で見つめていた。
隻眼に映るのは、夏風を受けて揺れる草にじゃれ付く子犬。
手を放した瞬間、酷い耳鳴りがした。
(狂っているのは、あいつじゃなくて…)
放った矢を力なく目で追っていると、それは子犬に刺さることなく手前で落ちた。よく見ると、杏がひとつ、地面に落ちた矢に無残に貫かれている。
「どう?俺様の腕前」
いつの間に木から降りたのか、佐助が隣で手に杏をもてあそびながら立っていた。
「こっちに苦無でも投げてりゃこの首もとれただろうにな」
いつかあれが飢えた野犬になって、忍びの自慢の腕でも噛み千切れば面白い。
そう言って毒突いても、佐助はへらりと笑うだけだった。
ゆっくりと政宗に歩み寄り、持っていた杏を地面に転がした。
「アンタは俺のこと狂ってるって言ったけど」
佐助が緩慢な動作で政宗の手から弓矢を取る様子を、拒みもせずに政宗は見ていた。
矢が番えられ、佐助が弦を引いた。
「…あながち、間違ってないと思うよ」
佐助の眼が、今まで見せたことも無いような剣呑な色を宿していた。その先の標的に気付き、政宗はようやく我に返って矢を放とうとしている佐助の腕を掴んだ。暑さによるものではない汗が一筋、背を伝った。
「どうしたの?旦那もさっき狙ってたでしょ」
政宗は何も言えず、佐助が矢を番える腕から力を抜いたのを感じると、ゆっくりと手を放した。
「旦那、俺が止めるって分かっててやったでしょ?」
「何を…」
「結構嬉しいんだよね、そういうの」
先ほど見せた剣呑な色は跡形も無く、いつも通りに笑う佐助は、その笑顔が平素と変わらないほど恐ろしい印象を与えた。
「だから、勿体ないから今は殺さない」
(…欲しい)
この狂気の先が欲しい。
この忍びの爪は、竜の鱗を裂くだけの力を持っているのだろうか。
生まれ、生まれ、生まれ、生まれて、生の始めに暗く
死に、死に、死に、死んで、死の終わりに冥らし
永劫に闇だと言うのならば、いっそそれもいいだろう。
佐助が背を向けて歩き出した。弓矢は政宗の足元に置かれている。
政宗は弓矢を拾うと、的の方へ向き直り、構え直した。
あと一寸だった。
次は、決して外さない。
あの狂気の先が、欲しい。
放たれた矢が、強く空を裂いた。
「…竜の旦那?」
訝しげに振り向いた佐助に、的の方を見たまま政宗は小さく笑った。
「竜の鱗を裂く爪だ…噛み千切られちゃ困るんでね」
的の中央に、政宗の放った矢は刺さっていなかった。
詞は『秘蔵宝鑰』の序文から。(恐れ多すぎるゴメンナサイ)
なんだか暗いけど、今までのSSと比べるといちばん両思いっぽい。何でだ…。orz
出来る限り直接的な表現を避けてみましたけど、こういうの苦手な方いたらすみません。
(2007/8/7)