蛙鳴蝉噪
少しでも油断すれば、落ちる。
いくら忍びとはいえ、昨夜の雨で滑りやすくなった瓦の上を走り、尚且つ背後に気を配るのは至難の業だ。
しかしこの男は、その上で更に軽口まで叩いてみせるのだから、相手からしてみれば厄介を通り越して憎たらしくもなるだろう。
がしゃりと瓦を踏む派手な音を聞き、佐助は慌てて振り向いた。
「ちょ、駄目だよアンタは忍びじゃないんだから!戻って戻って!」
「うるせぇ!死ねっ!」
跳躍とともに振り下ろされた斬撃は、真っ直ぐに佐助に向かう。大きく跳ねて上方の鬼瓦へ飛び移り、自分が立っていた場所を見下ろせば、竜の爪痕のごとく屋根が抉られていた。
その竜の姿は、既に無い。
背後から影が下りた。
「…っ!」
振り向きざまに、今度は佐助の頭を狙った白刃を、どうにか篭手で受け止めた。衝撃で数枚の瓦が落ち、途中壁にぶつかりながら砕けて散った。
「政宗様っ!」
叫んだのは小十郎だった。
「あ、危ない!政宗様っ!」
「片倉殿!どうかここは佐助に任せ…」
「うるせえ!もとを正せばあの野郎のせいだろうが!」
今にも窓から屋根へ出て行きそうな小十郎を、幸村が必死におさえている。
「悪かった!謝るから戻ってよ竜の旦那!落ちるっ」
「死んで詫びろ!」
今度は高い位置からの突きが繰り出された。篭手で受け止める訳にもゆかず横へ避けると、政宗がその勢いで濡れた瓦に足をとられた。
「政宗様!」
「政宗殿!」
外野が同時に声をあげたが、当の本人にそれは届いているのかどうか。
政宗はすぐに体勢を整え、刀を構えなおした。
「佐助ぇ!避けるなぁっ!」
「忍び!政宗様に何かあれば、五体有るまま故郷の地を踏めると思うな!」
「うっそ、みんな敵?!」
佐助が顔を引きつらせながら外野の様子を見ている間にも、政宗はその距離をじりじりと詰めてくる。
事の起こりは、一刻ほど前に遡る。
昨夜の雨が嘘のように晴れ、庭木から落ちる雨露が朝日を受けてきらきらと光っていた。その庭に面した廊下を、静かな足音が2つ渡っていく。
「政宗殿、どうかお手合わせを!」
「あー…、また後でな、後で」
甲斐は武田のもとを訪れた帰路、政宗は上田城に招かれ、数日逗留することになっていた。素直にその招きに応じたのは、それが幸村からではなく、戦上手で知られる彼の父、真田昌幸からのものだったためだ。当代随一の策謀家と謳われた男と話がしたいと思うのは、武将として当然のことだろう。自然、政宗は昌幸とばかり話をしたがり、昌幸の忙しい間は、いくら幸村が声をかけてもうわの空で、終始一の如しだった。
幸村はその態度に堪りかね、ついに大声を出した。
「昨日も一昨日も同じ事を仰せになった!政宗殿の”後”とは一体何時のことか!」
思い切り床を踏みつける音に、政宗が剣呑な目つきで振り返った。
「今回は昌幸殿の客として来てんだ…餓鬼の我儘に付き合うつもりはねぇんだよ」
「がっ、餓鬼とはいかな…」
「あーはいはい待った!」
制止の声の後、佐助が軒から降りてきた。くるりと器用に回って廊下に立ち、幸村と政宗の間に入る。
「真田の旦那、竜の旦那が帰るまではまだ日があるんだから」
「しかしっ!」
「こっちにいる時くらい休ませてあげなよ、竜の旦那はいつも国一つ背負ってるんだから、真田の旦那と違って滅多に骨休めなんて出来ないんだし」
「…おい」
常よりずっと低い声に、幸村と佐助が一瞬止まった。その声に、怒気というには生易しいほどの、殺気めいた気配が含まれていた。佐助の肩越しに政宗を見た幸村の表情が、凍りついた。
「俺が、国一つ背負ったくらいで、疲れてるって?」
「え…」
振り向くより先に、佐助の頬に何かがひた、とあてられた。
朝日を受ける雨露のように光るそれは、磨きこまれた竜の爪だった。
「…それだけか?」
「うむ…」
事の顛末の委細を聞き、小十郎が呆れ顔で幸村を見た。
たったそれだけのことで我が主はあれほど怒るだろうかと、もう一度屋根の上で向かい合う2人に視線を移す。刀を上段から下段に構え直し踏み込みの隙を狙う主の瞳の色は、まさに戦場で見せるそれである。対する佐助も、さすがに余裕がなくなってきたのか、いつもの笑顔を引っ込めていた。
「随分賑やかだと思うて来てみれば…そういうことか」
「父上!」
「昌幸殿」
いつの間に来たのか、幸村と小十郎が振り向くと、昌幸がさも楽しげに微笑しながら屋根の上の2人を見ていた。
「いや、政宗殿のお怒りももっとも」
「何ですと?」
怪訝そうに問い返す小十郎に、昌幸はまた微笑を返す。それは佐助のするような飄々としたものとも、幸村の見せる人懐こそうなものとも違い、人を諭すような、どこか表裏とも真偽ともつかない二面を持ち合わせたものだった。
「昨晩、政宗殿と話をさせていただいた。あの年若さで、なかなかに人心を心得ておる」
この昌幸と言う策謀家に、政宗は戦術ではなく政(まつりごと)のことばかり問うたのだという。
国を背負うが不安かと問い返せば、分からない、と、この独眼竜にしては珍しく言葉を濁した。
「背にかかる国が重いかと聞かれて、『重くない』などと言えば、それだけ俺が民を軽視しているということだ。しかし、『重い』と言えば…」
一国の重圧を口にする国主に、民が、家臣が安穏として圧し掛かっていられるものか。
どうあろうと、人々の目からは余裕のあるように見られねばと、政宗は呟いた。
「あれと話すのが好きだとも申された」
「佐助と?」
驚いて目を瞠る幸村に、昌幸が静かに頷いた。
「お前や片倉殿と違い、あれは武将ではない。どちらかと言えば民に近い。民意を直に聞いているように思えるのだそうだ。その佐助に、国を背負うて疲れていると見られたのが悔しかったのであろうな」
「政宗様がそのようなことを…」
成長なされた、と涙ぐむ小十郎を、昌幸が温かい目で見ながら微笑する。
その2人の和やかな様子を見ながら、幸村が言いにくそうに口を開いた。
「しかし父上、当面の問題は…」
「うわっ!」
「ちょっ、嘘だろ!」
佐助に刀を防がれ、後ろへ退いた政宗の足元の瓦がずれた。体勢を崩して屋根から落ちそうになった政宗の腕を、佐助がなんとか掴んだが、その勢いに堪えきれずに引きずられ、ふちにふたりでぶら下がる。
「忍びてめぇ!政宗様から離れろ!い、いや、放すな!」
「佐助ぇ!いつもの鳥を呼べ!早くっ!」
「両手塞がってんだから、無理言うなって…!」
「Goddamn…!放しやがれ!」
「ちょっと暴れないでよ竜の旦那、いてっ…暴れんなっつってんだろこのくそガキ!」
「んだと、てめぇ!」
「佐助がキレた…父上!」
「ふむ…」
この状況でも、昌幸は落ち着いたまま屋根にぶら下がった2人を見、窓から少し乗り出して下を見た。その父の様子に焦れるように、幸村が落ち着きなく窓の外の2人と昌幸の間に交互に視線をさ迷わせている。
「落ちてもよかろう」
「なっ…!」
「ち、父上?!」
今にも掴みかかりそうな幸村と小十郎を、昌幸は小さく手で制した。
「昨夜の雨で堀に充分水が張っておる。政宗殿は甲冑をつけているわけでも無し」
「佐助はいつも帷子をつけておりましょう!」
「仕方があるまい」
あれは忍びであろう、と。さらりと言ってのけ、昌幸は闊達に笑う。
あっ、という短い叫び声に、3人が窓の外を見やった。
そこには先程までぶら下がっていたはずの佐助と政宗の姿は無く、代わりに派手な水音が下から聞こえた。しばらくすると、今度はふたりの怒号が堀に響く。
「さて、温かい茶でも用意させておくか」
楽しげに言って奥へ戻る昌幸の背中を見ながら、幸村と小十郎は呆けたまましばらく何も言えなかった。
ドラマCDではお亡くなりになっているという設定の昌幸公。
正直歴史上の人物の中ではいちばん好きなのでかなりショックでした。orz
なので当サイト内では生きてます。あしからず。
なんか全然サスダテっぽくないけど、サスダテですよ…!
(2007/3/12)