霊猫香
二人の男が向かい合って座っていた。
上座の赤い着物の男は逃げ出したいのを必死に抑えているかのように恐縮し、下座の忍装束の男は書簡を睨みつけたまま暗い怒気を放っている。
「…で?」
「はいっ」
「これがその返事だと」
「はい」
「そういうことは書状送る前に確認するようにっていつも言ってるよね?」
「す、すまぬ」
すっかり小さくなってしまった主を見ながら、佐助は襲ってきた頭痛にこめかみの辺りをおさえた。
佐助の手の中の書簡には、流麗な文字に鶺鴒の花押があった。奥州の伊達政宗からのものだ。
「旦那、援軍の意味分かってる?」
「無論、戦にて政宗どのをお助けするため…」
「そう、”戦”だからね、”喧嘩”じゃないんだよ。つまり」
先程より強い頭痛に、今度は目頭の辺りをおさえる。
「旦那ひとりが行っても仕方がないでしょ、軍を送らなきゃ」
「拙者ひとりとは言っておらぬ!佐助も行く…と、…その…」
「書いたの?」
「かきました…」
これじゃあ”援軍”じゃなくて”助太刀”だ。
政宗からの書簡には形式どおりの感謝の意がしたためられているが、今の武田軍の状況と真田幸村という人物を知らない者であったら、この扱いに激怒してもおかしくはないだろう。
幸村の出した書状の内容を知った武田信玄は、動かしうるだけの兵を急遽整え、政宗宛に今回の事の成り行きについて説明した書簡を書き、佐助に持たせたのだった。
「こうなったら、雑巾だったらとっくに擦り切れてるってぐらい働いてもらうしかないな…」
「この真田幸村、一騎当千の働きをしてみせようぞ」
「千じゃ足りないよ、二、三千人くらい当たってもらわないと」
「…承知」
* * * *
「この度は礼儀もわきまえず、手前の判断で斯様な事態になってしまい、まこと申し訳ない」
深々と頭を下げる幸村を見ながら、政宗は必死に笑いをこらえていた。それとは対照的に、傍らにいる政宗の腹心は顔を顰めたままため息をついている。
(一緒に行かなくて良かった…)
天井の隙間から様子をうかがっていた佐助は、小さく胸をなでおろした。
奥州に着くと、戦前特有の静かな活気に出迎えられた。
防衛線が本拠である城より北にあるため人手が少なく、挨拶もある程度簡単なものになった。
それでも形式上はそのような場に忍が入るのは無礼だろうと、佐助は幸村に辞退することを伝えてもらったが、話だけは聞いておくようにと言われ、いつものように天井へ上がっていた。
「手勢が少なくなってしまいましたが、今は武田もあのような状況ゆえ…」
「Ha、そりゃ構わねぇよ。籠城戦は兵糧のほうが気になる」
(籠城か…こりゃ楽できそうだ)
逆ならば敵の城に忍び込んだり兵糧の補給路を断ったりと忍の仕事も多いが、籠城となると情報収集や敵の忍の警戒が主な仕事になり、大掛かりなことはしなくて済む。
三人が戦の話をしているのを聞いていると、不意に幸村がちらりと天井のほうを見た。
「あの、ところで、政宗どの…」
「なんだ?」
「あれの配置はいかがいたしますか?」
小十郎の表情を窺いながら、幸村が言いにくそうに切り出した。ああ、と政宗も上を見上げ、少し思案してから天井に向かって声をかけた。
「おい忍、信玄公からの書状、持ってんだよなぁ?仕事も決めといてやっから後で来い」
「政宗様!」
「いいじゃねぇか小十郎。どうせ今呼んだってお前怒るだろ」
小十郎は憮然としたまま引き下がった。わかったか?と重ねて聞いてきた政宗に、佐助は気まずそうに小さく返事をした。
酒の席の騒ぎがおさまったころには、辺りはすっかり暗くなっていた。
政宗は酒に酔って眠ってしまった幸村を小姓に任せ、自室に戻って着物を寛げ書き物をしていた。
「来たか」
小さな物音に、政宗は視線を文机の上の紙に落としたまま言った。直後に柔らかく床板を踏む音が降りてくる。
「失礼しますよ…あれ」
「どうした?」
「旦那、香でも焚いてます?」
天井よりも暖かい室内には、香独特の甘い香りがほのかに漂っていた。武田の武将にはそういった事に気を使う者がいないため、鼻の利く佐助にはほんの微かでもすぐにわかった。
「あぁ…火鉢に少し残ってたのかもな」
「そりゃまた風流なこって」
援軍の要請までしたわりには随分と悠長な政宗に、佐助は苦笑しながら武田信玄からの書状を渡した。政宗はそれを受け取るとすぐに文面に目をはしらせ、満足そうに笑った。
「OK、充分だ。これで地固めは整ったぜ」
この一言に佐助はようやく合点がいった。
「なるほど、欲しかったのは援軍よりも虎の名か」
「ご明察」
北側の守りに兵力を割いてしまうため、どうしても南側が手薄になる。そちらから攻め込まれるのを防ぐため、後方から甲斐の虎が目を光らせているということを主張しておきたかったらしい。
「戦自体は楽勝?」
「当たり前だ」
「だからわざわざ大将じゃなくて、面白いことしてくれちゃいそうな真田の旦那に援軍要請したってわけだ」
「大軍遣されても面倒見きれねぇからな、真田のやつは期待通りだったぜ」
政宗が笑いながら文机の隅に置いてあった書簡を指した。見慣れた文字は幸村のものだ。
武田軍と伊達軍が協力関係になってから何度か顔を合わせ、嫌な人柄ではないことはよくわかったが、未だに政宗はこういった人を食ったようなことをする。
「やれやれ…それじゃあ俺様の出番もほとんどないんだろうねぇ」
「何言ってんだ、きっちり働いてもらうぜ?」
姿勢を崩しながら政宗が口の端を上げて笑う。政宗の近くにあった火鉢からの香りが、彼が動くのと一緒に揺れた。酒が抜け切らないのか、いつもより目元が赤い。佐助は体の奥がざわつくのをなんとか抑えようと息を吐き、目を逸らした。
「えーっと、そろそろ失礼しますよ」
「待て、まだその仕事の話をしてねぇだろ」
退出しようと立ち上がった佐助の着物を、政宗が掴んだ。振り向くと佐助が政宗を見下ろす形になり、着物を寛げてこちらを見上げる政宗の朱のさした鎖骨が目に付く。
「…旦那、酔ってるでしょ?酔いが覚めてから聞きますよ」
佐助の視線に気づき、政宗が笑みを深くした。急に佐助の着物を強く引き、耳元に口を近づけた。
「お前も酔ってんなぁ、佐助?」
耳がかっと熱くなり、次の瞬間、佐助は強く政宗を押し倒した。
着物がはだけた肩を押さえ、組み敷いたまま見下ろすと、政宗は喉の奥でくつくつと笑っている。政宗に顔を向けたまま、佐助は視線を近くにあった火鉢に移し、片手でそれを引き寄せた。甘い芳香が強くなる。
「麝香か…」
政宗が今度は声をたてて笑った。その様子に呆れて佐助がため息をつく。
ひどく悩ましい香りを漂わせるこの香は、薫物だけでなく興奮剤にも使われるものだった。
「火遊びが過ぎるんじゃない?竜の旦那」
「たまには遊ばせろよ」
悪びれた様子の無い政宗に、ふいに佐助が表情を消して顔を近づけた。唇が触れそうな位置で止まり、政宗の左目をじっと覗き込む。
「遊びだけじゃすまないかもよ?」
息が触れ、政宗が微かに反応を示した。
「…もし酔ってなければ…」
低く呟くように言うと、佐助は音も無くその場から消えてしまった。
「Shit...」
政宗はゆっくりと起き上がり、はだけた着物を直した。
とっとと眠ってしまおうと、まだ香りを放っている火鉢の炭に、乱暴に灰をかけて火を消し、布団に潜りこんだ。
頭に響いて離れない声の主に、明日の戦ではこき使ってやると心に決めて目を閉じる。
消えずにくすぶっている火鉢の炭が、ぱちりと小さく音をたてた。
* * * *
城郭から広く戦場を見渡し、こちらの優勢に采配を握った男は薄く笑んだ。
本人は気づいていないが、元来槍を振るうより、こうして奇策を弄するほうがこの男には性に合っているらしい。負けようのない戦を任された今は、できる限り兵力を手薄の防衛拠点に回すため、徐々に準備を整えていた。
「上々」
その声に、男はぱっといつもの人懐こい表情にもどり、振り向いて後ろにいた隻眼の男に笑顔を見せた。
「これは政宗どの」
「様子を見に来たが…心配ねぇな」
流石は真田の者、と付け加えられると、幸村は照れくさそうに頭をかいた。
「城の立地がようござった。某の腕ではありませぬ」
言いながら、ふと幸村はあることに気がついて政宗に近づいた。
「政宗どの」
「なんだ?」
「香の匂いが」
首元に顔が近づき、小さな声で囁かれ、政宗は思わず首筋を押さえて後ろにさがった。その反応に幸村が不思議そうに首を傾げた。
「…気のせいだろ」
「いや、そんなはずは…某、鼻はよく利きまして」
佐助といい幸村といい、武田の連中は皆動物かと政宗は声にならない罵声を浴びせる。
幸村の手が伸びてきて、政宗は思わず身を固まらせた。
「三千人!」
「はっ、はいっ!!」
突然降ってきた声に、幸村が手を引っ込めて気をつけの姿勢をとる。直後に自慢の二槍を掴むと、素早く眼下の戦場へと飛び出して行ってしまった。
「何だ?今の三千人ってのは」
「こっちの話」
頬杖をついて城の屋根瓦の上に座っていた佐助が、政宗を見下ろしながら肩を竦めた。
「それにしても、結構きついみたいだな、この香」
「何を今更…」
昨夜のことを思い出し、佐助は少し顔をしかめて横を向いた。
今思えば、政宗のあの様子も、酒ではなく香のせいだったのかもしれない。
部屋にずっといたためにその甘い香りを身にまとったままの政宗が気になり、佐助は仕事の合間をぬっては政宗の様子を見に来ていた。
香りどころかその効能もぬけていないのではないかと疑いたくなる。
現に先ほど幸村が手を伸ばしてきたときも、いつものように睨み付けることもしなかった。
(…食っとけばよかった)
そうすれば政宗のくすぶりもなくなっていただろうに。
当の本人は自分についた香りがわからないらしく、陣羽織の袖のあたりに鼻を近づけては首を傾げていた。佐助がその様子に思わず舌打ちをする。
「おい佐助!」
「な、何?」
急に声をかけられ、佐助は慌てて返事をした。
「てめぇ仕事はどうした!手ぇ抜いてんじゃねぇぞ!」
「そう言うなら戻るけど、その代わりこれ持っててよ」
「あ?…ぅわ臭っ!何だこれ?!」
「悪臭香炉」
「ふざけんな!」
「ふざけてません」
佐助は政宗が香炉を投げ返してくる前に傍らにいた鳥を飛ばし、それにつかまってその場を離れた。
遥か下の戦場で槍を振るう幸村を尻目に、佐助はぼんやりと昨夜の記憶にひたっていた。
本当はもうちょっと破廉恥だったのですが、使わせていただいてるサーバさんがどこまでOKなのかよくわからないのでとりあえず様子見…。
*後半部分忘れていたので追記しました。
(2007/1/18)