遣らずの雨
雨で濡れた着物は、戦装束よりも随分と重たかった。
歩き慣れた薄暗い一本道を、只々下を向いて歩きながら。
「久しぶりの休みだってのに…全く…」
笠もなしに、黙々と。
どしゃ降りだった雨は、いつの間にか季節はずれの霧雨に変わり、全ての音を忘れてしまったかのように静かに振り続ける。
「困るんだよなぁ」
優しい雨は体温を奪うばかりで、着物についた鉄くさい赤を落としてはくれない。
目に映るのはぐしゃぐしゃの地面だけだというのに、頭に浮かぶのはべつのことばかり。
こちらを見る隻眼と、自身の抑揚の無い乾いた声と。
「困るんだよ…」
こびり付いて離れないものすら、流してしまうような雨でなければ。
* * * *
「やれやれ…」
戦続きで部屋の隅に追いやられていた菅笠を手に取ると、穴は開かないまでも所々葉がほつれていた。
伊達軍との間に休戦協定をとりつけ、ほんの短い期間とは言え、ようやく甲斐とその周辺が静かになった。本来なら、今日は奥州から招かれた伊達家当主のため多くの催しがあるはずだったが、ひどい雨で延期になった。周辺の見張りにあたることになっていた忍び隊の者は、この降って湧いたような久々の休暇に皆よろこんだ。
忍び隊の長である佐助も、この僥倖に甘えない手はないと、ここ数ヶ月の疲れを癒すべく一日寝て過ごすことにした。
しかしいつもの活動習慣が身についてしまって、一刻ほど寝るとすっかり目が覚めてしまった。
外出しようにも、この天気。
「ついてないよなぁ」
仕方なくくたびれた笠をとり、わらじを結ぶ。苦無を懐にしのばせたのは無意識で、佐助にとっては戸締りの確認と同じような感覚だった。
『何が協定だ』
ふいに忍びのひとりが呟いた言葉が頭にひびく。
気持ちはよくわかるが、佐助には苦笑することしかできなかった。
今川、北条、武田の三国間で結ばれた同盟を真っ先に破った自軍の大将と、今の勢いで一気に南下しようとしている奥州の若い国主。どれほどこの協定がもつものかと悲観的に考えてしまうのも無理はなかった。
そして、何よりも。
協定を決めたのはあくまでお偉方であり、戦で近しい者を失った人々にとってはただ憎いばかりで、協定などどうでもよいことだった。
「せっかくのお休みだってのにねぇ」
休暇が欲しいと戦中口癖のようにぼやいていたというのに、いざ休みとなると、やることも見つからず、思考はすぐに戦がらみの方向へ向かってしまう。
笠についた埃を払いながら大きく息をつき、佐助は雨の中を歩き始めた。
町へ向かう広い一本道の途中、木が茂り少し暗い場所がある。こんな天気の日はさらに暗く視界も悪いが、それでも確かに前を行く人影をみとめ、おもわず歩みが止まった。
青い着物に鳶色の髪。腰の刀は二振りだが、見覚えのある後姿。めずらしくあの強面の腹心もおらず、ひとりで歩いている。
背筋が冷えた。
こんなところで護衛も無しに何をしている。
つい先日まで敵国だった場所で。
休戦の紙切れひとつで安心したのか。
親しい者を失った人々の、恨みの深さを知らないのか。
道は行くほどに暗く、雨音は叫び声も飲み込むだろう。
奥州の国主の後ろに、足音の無い影がもうひとつあるのに気づいているのは、佐助だけだった。
『何が協定だ』
耳鳴りのように言葉が響いた。
懐にしのばせた苦無が存在感を増す。
「伊達政宗、覚悟」
声とともに、影が姿を現した。
隻眼の竜が振り返りその爪を光らせたのと、佐助が地面を蹴ったのは、ほぼ同時。
(ああ…)
せっかくの休みだというのに、本当に。
* * * *
「ついてないよ…」
無理やり笑ってみたが、表情が歪んでしまう。
後ろに落とした笠は、雨と泥ですっかり使い物にならなくなっていた。
政宗は無表情のまま佐助を見て、ゆっくりと瞬きながら、視線を地面に倒れた影に移した。
「…殺したのか」
「まだ生きてると思うよ。ちょっと失血しすぎたから気絶してるだけ」
毒ですぐに死ぬけど、と続けた声には感情が無く、佐助はまるで自分の声ではないような感覚に陥った。
いつもならば血などほとんど出ないように切るのだが、雨のせいか手元が狂ったらしい。伏した影の手首の辺りから、ほんの少し水溜りが赤く染まっていた。佐助の着物にも返り血がついている。
「竜の旦那」
呼ぶとその目がこちらを向いた。
「自分が誰か、ここがどこか、わかってる?」
政宗が何か言おうと口を開きかけたのが見えたが、足元の水溜りに赤が広がっていくのに堪えられず、佐助は暗い一本道を先へ歩いた。
* * * *
血のついた着物では茶屋にも入れない。戻る気にもなれず、佐助は道を少しはずれたところにある木の下で雨宿りをしていた。空は黒い雲に隠れ、静かに冷たい霧雨を降らせ続けている。
顔を伏せ、目を閉じ、数刻もそのまま待ったが、空は暗くなるばかりだった。
足音が近づいてきたが、佐助は伏せたまま気づかないふりをしていた。
「こいつぁ遣らずの雨だな」
妙に上機嫌な声に腹が立った。
「…何か用?」
顔を上げずに刺々しく言ってやったが、相手は気にもとめずにそこに立ったままだ。
「愛想のねぇ野郎だ。ほらよ」
仕方なく顔を上げると、政宗が見慣れた茶屋の団子の包みをこちらへ差し出していた。
「何?」
「団子」
「いらない」
「てめぇにじゃねえよ」
大将か真田の旦那へなら自分で届ければいいじゃないか。言いかけてそれも億劫になり、口を閉じた。
「なんだ、いつもはほっといても饒舌なくせに」
ほんの数刻前に自分の部下を殺した者に何を言うのか。
「そういう気分じゃない」
「こんな天気じゃ気分ものらねぇか?」
「…アンタ、いい加減にしてくれよ」
ついに我慢できなくなり、佐助は暗い目を政宗に向ける。
「アンタにとっちゃただの”草”だろうけど、こっちからすりゃ大事な”仲間”だったんだ。いつ消えるかもわからないような協定のためにそいつを殺した俺の身にもなってくれ」
珍しく感情を表に出す佐助を見ながら、政宗が眉をひそめる。
「死んでねぇぜ?」
「……?」
頭の中が白くなり、佐助は政宗の言っていることが一瞬理解できなかった。
「さっきのやつだろ?あいつなら生きてる」
傷が水溜りにつかっていたせいで、血と一緒に毒がある程度抜けたのだろう。止血し、気付け薬をかがせてやると、自分で解毒薬を飲んで戻って行ったのだと政宗が言った。
「送ってやろうかっつったら断りやがった。武田の忍ってのは愛想のねぇやつばっかりだな」
「…そう」
助かったのか。
佐助が呆然としたまま気の抜けたような声で呟くと、政宗はまた上機嫌に笑う。
「言っただろ、こいつぁ遣らずの雨だって」
まるで人をひき止める為であるかのように降る雨を、『遣らずの雨』というのだと、むかし誰かが言っていた。
自分を殺そうとした影の命を引き止めた雨を機嫌良くそう呼ぶ政宗を見ながら、国を背負う者にとっての休戦の意味をようやく知った気がした。
いろいろな思いが混ざり、佐助は顔を上げていられなくなった。
ひとつ息を吐き、政宗のほうへ顔を向けると、いつも通りに笑ってみせる。
「酒飲みに行かない?」
「あ?」
「今度の協定を祝して」
「…お前のおごりな」
結局団子はだれのなのか。
(2007/1/12)