07.闇色アルカナム
早起き、と言うよりは、目が覚めてしまったと言ったほうがしっくりくるだろう。
梵天丸が眠い目をこすり、そっと障子をずらしてみると、空にはまだ月がくっきりとその輪郭を保っていた。
今宵の月は居待月(いまちづき)。蒼く蒼く、美しい。
月明かりは全てのものに、まるで博愛の象徴であるかのように降り注ぐ。
自分にもとどくその優しい明りが、梵天丸は好きだった。
音をたてないように、誰にも見つからないように、静かに庭へ出てみれば、夜風が冷たく心地良い。
月は遠く塀の外で、庭木に半分だけ顔を隠していた。
城から外へ出てみたい。
小さな子供の心に頭をもたげた好奇心は、少しずつ増していく。
すぐに戻るからと、誰にも聞こえない呟きを残し、梵天丸は早足に歩き出した。
月は優しく梵天丸の足元を照らし、まるで遠くへ導くように先を行く。初めてひとりで城の外を歩いているということが、幼い梵天丸には誇らしい。
何気なく振り返り、自分の歩いた道を見る。随分と城から離れてしまった。梵天丸はほんの少し不安になった。戻ろうかと迷っていると、近くの木の陰からひそひそと人の話し声が聞こえた。
ゆっくりと近づくと、男がふたり、真剣な面持ちで何やら話をしている。
ひとりは黒尽くめの装束で、後姿のためよくわからないが、頭もほとんど黒い布で覆っていた。
もうひとりは木に寄りかかり、先ほどから思案顔をして黒尽くめの男の話を聞いている。似たように黒い装束を着ているが、こちらは布をかぶっていない。今宵の月とは対照的な、赤茶けてばさばさした髪が目立っていた。
ふたりとも、腰に刀をさしている。
それに気づいた梵天丸は、息を呑んで足を退いた。その気配を気取ったのか、ふたりが同時にこちらへ目を向ける。
黒尽くめの男の反応は早かった。
すぐに刀に手を伸ばし、鞘より幾分短いそれを、威嚇するように音を立てて引き抜いた。
「…っ」
声も出せずに梵天丸が立ち尽くしていると、赤茶けた髪の男が苦笑し、黒尽くめの男を止めた。
「先に行っててくれ」
赤茶けた髪の男が言うと、黒尽くめの男は刀をおさめ、月の光の届かない木々の間へ消えてしまった。それを見届け、残った男が未だに動けずにいる梵天丸の前にしゃがみ、視線の高さを合わせて笑う。
「こんばんわ」
「…」
黙ったままの梵天丸に男は少し困った表情になった。
「こんな時間にお散歩?」
「…だ、」
「うん?」
喉から搾り出すように何か言おうとする梵天丸の口元へ、男は耳を傾けた。
「誰にも言わないで」
意外な言葉に、男は瞬いて梵天丸を見た。
梵天丸からしてみれば、こんな時間に勝手に城から抜け出してしまったという事実のほうが、刃という直接的な恐怖よりずっと重たかったらしい。固く結んだ唇は白く、着物を握り締める手は小さく震えている。男は笑いながら梵天丸の頭を撫でた。
「もちろん、誰にも言わないよ。その代わり…」
「?」
「俺たちのことも、秘密にしてくれないかなぁ?」
「…わかった」
「ありがとう。じゃあ、指きり」
男がその優しげな風貌とは不釣合いな厳めしい篭手をはずし、小指を立てて梵天丸の前に差し出した。梵天丸はその意味がわからず、おずおずと指を握ってみた。顔を上げると、きょとんとした男と目が合う。
「もしかして、指きり知らないの?」
梵天丸が困って首を傾げると、男は笑ってまた梵天丸の頭を撫でた。まあいいか、と言って立ち上がり、篭手をはめ直す。梵天丸は夜風に揺れる男の赤茶けた髪を見ながら、月明かりとの色の対照を不思議に思った。
「お前は変わってるな」
「そう?」
「だって、父上の忍びはお前みたいに優しくない」
風が、ひときわ強くざわめき、月の光を陰らせた。
「…『父上の忍び』?」
声の調子がさっきまでとは微妙に違って聞こえる。立ち上がったままの男の視線は梵天丸よりずっと高く、見下ろされると威圧感さえあった。
「どうして俺が忍びだと…?」
「か、刀…鞘より刀身が、短かったから…」
相手に居合の間を測らせない為の、忍び刀の特徴だった。
「…『父上の忍び』ってのは、伊達の…」
微笑んだままだというのに、黒尽くめの男とは比べ物にならない感覚に梵天丸は気圧された。
思わず強く目を瞑ると、いつの間にか溢れていた涙が零れた。
近づいた足音に身を強張らせていると、冷たい手が零れた涙に触れた。
「ごめん、ずいぶん不公平な約束だ」
柔らかい声に目を開けると、男は屈んで梵天丸の顔を覗き込んでいた。
物腰は優しいものに戻っていたが、瞳の色はどこか悲しそうに揺れている。
「聡い子だ…」
一瞬だけ目を伏せたあと、真っ直ぐに梵天丸の隻眼を見た。
「いつか、ここで俺を見逃したことを後悔するかもしれないけど…。俺の名前を置いていくから」
自責の念に囚われないよう、全ての罪悪をこの名前に被せてほしい。
「…『さるとびさすけ』」
告げられた男の名前を呼んでみると、やはりまた優しく笑う。
「城で何かするのか?」
立ち去ろうとする男に問うてみたが、返事はなかった。
「お前が何したって伊達は大丈夫だ、父上や、叔父御だっておられる!」
振り返らずに歩く男の背を見ながら、また涙が溢れそうになった。
「だから、お前の名前は誰にも言わない!すぐに忘れてやる!」
叫ぶようにそう言って、梵天丸は月に背を向けて走り出した。
やっぱり、不公平じゃないか。
あんなに優しい色に、自分の後悔など被せられるはずがない。
月明かりを振り切るように走り続けて、ようやく城につくと、水を汲みに出ていた侍女が、肩で息をする梵天丸を見て驚いた。
「若様!このように早くからどちらへ…」
水仕事で冷えた侍女の手の感触に、梵天丸の意識がようやく追いついた。途端にぼろぼろと涙がこぼれ、梵天丸は声を上げて泣き出した。
朝日が昇り、月の輪郭が霞みはじめる。
初めて自分に向けられた無償の優しさは、青白い月明かりよりずっと温かそうだった。
名は、きっと忘れるから。
心の中で呟いて、赤茶けた居待月の色だけを、強く胸に焼き付けた。
アルカナム、意味は『秘密』とか『神秘』とか、だそうです(受売り)。
パラレルで佐助←梵天丸っぽくしたかったのですが、何故か打ってて恥ずかしかったです。
『影遊び』のふたりとは似ても似つかない感じに仕上がりました。
佐助は伊達の敵方の忍びということで。子供に優しい、というか甘い。
(2007/2/16)