黄金の海





思えば、こうして他国の土を踏むことなどあっただろうか、と不思議な感慨で政宗は外の景色を眺めた。
田舎の山城と侮っていたが、目の前に広がるのは、中々に風情のある庭だった。
楓の古木が鮮やかに色づき始め、不思議と艶やかなその様に、気付けば意識を逸らせないでいる。
どこからか、水の跳ねる音がした。この場所からは見えないが、どこかに池でもあるのだろう。
少しの間だけ目蓋を閉じ、政宗はその音の在り処を探すように耳を澄ませた。

雪深くなる前に一度お出でになると良いだろう、とあの男は言った。
何の企みがあってのことかは知らない。
何も考えていないようで、意外と食えない男だ。どこまでも好意で誘ったかのように見せかけて、寝首を掻くくらいのことはするかもしれない。

起き抜けの寝巻き姿のまま、政宗は縁側の柱に背を預け、だらしなく脚がはだけるのも構わず、片膝を立てて座っていた。
黒い隻眼は、まっすぐ庭に魅入られたままだった。

「どうした、伊達の旦那。楓がそんなに珍しいかい?」
唐突に、声が頭上から降ってきた。
しかし姿は見えない。
政宗は少しも気配を感じなかったが、驚くことも怒ることもしなかった。
ただ、薄く笑みを浮かべて口角を上げる。

「今なら俺は丸腰だぜ」

首を取るなら絶好の機会だ、と言外にほのめかす。
すると軒の上の人物は、うんざりしたように呻いた。

「止してくれよ。そんなことしたら、俺が旦那に殺される」
「だが、手柄には違いない」
「だから、ホント勘弁してくださいってば。あの人がそういう卑怯な真似を一番嫌うって知ってるでしょうに」
「まぁ……、嫌いだろうな。筋金入りの偽善者だ」

くくっと喉の奥で笑ってやる。
それを聞いて、軒の上にいる人物はしばし沈黙した。気分を害したのだということは、政宗にもすぐにわかった。

「――――そういう言い方も、止してくれ」

低く、くぐもった声だった。

「注文が多いな」

皮肉たっぷりに肩を竦めて、政宗は縁側に肘をついて寝そべった。
家臣というものは、えてして自分よりも主君を貶されることに過敏に反応するものだ。
自国に置いてきた小十郎も正にそんな男だ。自分では散々面と向かってこきおろすくせに、他人に言われるのは我慢ならないらしい。
軒の上の忍もまた、軽薄そうに見えて同類のようだ。

――――勝手なものだな。

考えながら、ふつふつと奇妙な笑いがこみあげてきた。
良くない兆候だな、と思った。ひどく残酷な気分だった。

目に映るものを片端から踏みにじってしまいたい衝動が、下腹の辺りから喉元まで暗く突き上げてくる。
政宗はごろりと縁側に仰向けに転がり、手の甲を目蓋の上に重ねた。

「おい。主を呼んで来い」
「え?」
「客人が暇を持て余しているようなので、酒でも持っていって差し上げるが宜しかろう、と、そう伝えろ」

高慢に言い放てば、頭上の彼は、ほとほと呆れた、というように溜め息を吐いた。

「何でウチの旦那はこんなあばずれに懐いちゃったかねぇ……」

去り際に残された無礼極まりないぼやきに、政宗は一人でくつくつと笑った。

――――あばずれとは言ってくれるじゃねぇか、あの野郎。

言葉に悪意がなかったからか、それとも人徳とやらか、嫌な感じは少しもなかった。
政宗はごろりと転がり、呼びつけた男がやって来るまでの中途半端な時間を持て余し、大きな欠伸をひとつした。
どうせ着替え終えるほどの時間はないのだろう。
あの男は鬱陶しいくらい意気揚々と、これ以上ないほど大急ぎでやってくるのに違いなかった。
その一事を取ってみれば、確かに懐かれているのかもしれない、とも思う。


案の定、男が現れるまでに政宗はもう一つ欠伸をするくらいの間しかなかった。
襖の向こうから一声掛けてもらわなくとも、ずかずかと走ってきたその足音だけで十分だった。

「昨夜はよく眠られたか、政宗殿!」

ピシャッと軽快な音を立てて、建てつけの良い襖は勢いよく開いた。
そこに現れた赤い衣の男を、政宗はやはり半分寝転がったまま見上げた。

「……俺様は酒を持ってこいと言ったつもりだったが?」
「今日は全く良い天気でござるな。朝餉を食べ終えたら城下をご案内いたそう」
「だから、飯じゃなくて酒だ」
「この瓜は、某の曾祖母の代より引き継がれた由緒正しい糠床で拵えたものでござる。最近はお館様に付いて様々な土地に行くことも増えたが、それでもこの漬物に勝るものには未だ巡りあったことがござらぬ。ぜひ、ぜひ、政宗殿にもひと口召し上がっていただきたく」
「………」

聞こえているのに聞こえぬ振りをしているのか、何なのか。
とりあえず目の前の会話がさっぱり噛みあわない事実に、政宗は観念して深々と溜め息を吐いた。
目の前の赤い衣を纏った男は、うんざりするくらいの笑顔で、両手には政宗が所望した酒の変わりに朝餉の膳を二つ持っていた。
一つは政宗の分、もう一つは己の分ということなのだろう。

――――つまり、ここで、一緒に食べよう、と。

政宗は半眼でじろりと男を睨みつけたが、あちらは少しも意に介した風はなかった。
味噌汁の温かな匂いが鼻先をくすぐり、忘れていた空腹を思い出させる。
白い飯の湯気がほくほくと立ち上るのを見て、政宗は再び、溜め息を吐いた。
腹が減っては戦はできない。この他人の話をさっぱり聞かない男に怒鳴るのにも、まずは腹拵えからだ、と己に言い聞かせた。

政宗は起き上がり、胡坐をかいて座った。

「食ってやる。そこに置け」

すると、男はにっこりと満面の笑みを浮かべた。

「某もご一緒して構いませぬか」
「最初からそのつもりで来てるんだろうが。それを全部俺に食えと?」

睨んで嫌味たっぷりに言ってやると、男は少しだけ照れ臭そうに目を細めた。
意味が分からない、と呆れながら、政宗は目の前に置かれた箸に手をつけた。





*****





白い飯は、大層旨かった。
聞けば今年収穫したばかりの新米だという話だった。
常の落ち着きのなさから、飯を食べる時も飯粒をぼろぼろこぼすような酷いことになるのではないかと危惧していたが、さすがにそれは杞憂だった。
むしろ、飯を食べている間は思いのほか静かで、拍子抜けしてしまったくらいだ。

そんな奇妙な静けさの中で瓜の糠漬けを齧っていると、不意に男が口を開いた。

「お囃子が聞こえるでござるな」

言われて、政宗も耳を澄ました。確かに、風に乗ってかすかに笛や鈴の音が聞こえる。

「祭でもやってんのか」
「稲刈りの季節でござるからな。今年は豊作だったので、皆も意気込みがまるで違う」

男は祭の準備の様子でも思い出したか、くすくすと声を立てて笑った。

「政宗殿のお国も祭の時期ではござらぬか?」
「あぁ……、そうだな、そろそろだ」
「祭は良い。皆も活気づくし、何をしなくともただそこにいるだけで気分が沸き立つ」
「ガキみてぇだな」

そう言って鼻で笑うと、何を申されるか、とムキになって反論された。

「祭を楽しむのに老いも若きもござらぬ。男も女もござらぬ」
「あぁそうかい」

ガキ扱いされたことが余程不本意だったのだろう、その男の拗ねたような口許に、政宗は可笑しくなって笑いながら軽く返した。
そして笑いながら、自分の中の祭の思い出を探す。

本当に幼い頃、肩車をしてもらって見下ろした人の群れ。
もしくは、城を抜け出して人垣の中から見上げた花飾りの艶やかな紅。
辺りに漂う香ばしく甘い菓子の匂いと、忙しく人が行き交う道の砂埃。
物売りの威勢の良い声と、空気を揺さぶるような楽の音。

そして、夜空を焦がすほどの篝火に、息を呑み、立ち竦む。

記憶が交錯し、ぐらぐらと目の前が歪んで揺れた気がした。
けれど政宗は、自分の名を呼ぶ声に意識を今へと立ち戻らせる。

「いかがいたした?」
「………、いや」

頭を軽く振る。
目の前で心配そうにこちらを覗き込む大きな瞳に、政宗は小さな微笑を刷いて見せた。





*****





黄金の風が吹きぬけていく。
乾いた豊かな匂いを乗せて、山から里へ、駆けていく。

秋は実りの季節だ。
そして実りは、命そのものだ。
教えられたわけでもなく、誰もが理解している。

この実りによって生かされていること。
次の実りのために日々の営みを続けていくこと。
感謝すること。祈ること。
それは笑い、泣き、時には怒るのと同じくらい、疑うことのない仕組みだ。

――――だが、

そんな祈りも何もかも、踏みにじることはできたとしても、新しい実りを紡ぐ担い手とはなれない。
政宗はそんな己をよく理解しているし、また、その事実に不満もない。
けれど、それならば、こんな風にその力を目の当たりにして言葉を失うとき、言葉にできないで抱えるばかりの感情を、どうやって名づけたらよいのだろう。

無力感だろうか。敗北感だろうか。
それとも、気が触れそうなほどの憧憬か。
答えは見つからない。

「まるで海原のようでござろう」

男は誇らしげに言う。
こんな山間の田圃に対して大袈裟な物言いだった。
けれど政宗は持ち前の口の悪さを発揮することもできず、ただ肯いた。

「黄金の海だ」

一陣の風に、波がざわめくように。
重く頭を垂れた稲穂はさわさわと揺れる。

この土地に住む者は海など知らぬ。生涯、その目で見ることのない者が大半だろう。
だが、彼らはこの黄金の海を目にし、自分たちが誰よりも幸福であり、豊かであることを知る。
風に揺れ、擦れ合い、匂い立つ豊穣を胸いっぱいに吸い込み、彼らは笑い、歌うだろう。

遠くで祭囃子が聞こえる。
政宗は、その隻眼に焼き付けるように、目の前の景色を見つめた。

「幼い頃、この辺りで佐助と隠れ鬼をしていて、迷ってしまったことがござる」

男が傍らで懐かしそうに目を細めて言った。

「稲穂の中に分け入っていくと、すっかり視界を塞がれてしまいましてな。己がどこにいるのか、方角もわからず、田圃のど真ん中で、一人きりでわんわん泣いて」

すぐに見かねた佐助が助けにきてくれたのだけれども、と特に恥じ入る風でもなく、男は笑って風を受けた。
赤い額当ての布が、波打つように揺れる。

「………アンタ、何故、これを俺に見せた」

低く問うと、男は徐に振り返った。
その時の表情は、逆光で判然としなかった。
しかし、ゆっくりと微笑んだ口唇の形だけは辛うじて見て取れた。


男は政宗の問いには答えなかった。
ただ一言、ひどく無邪気な我儘を口にしただけだった。

「上野の桜も、いつか政宗殿にお見せしたい」

無邪気だが、それは決して、何も知らぬからではない。
むしろ何もかも、知っているからこそなのだろう。

留まれないからこそ、慈しむ。
例え都合の良いお題目なのだとしても、守りたいと思う気持ちに偽りはないのだと。
せめてそう信じたいと願う己が確かにまだいることに、気付く。

遠くに見える山が、並木が、春には一斉に薄紅に染まる。
艶やかにけぶるその色を、政宗は目蓋の裏に描いた。


「いつか――――、な」


このくらいの嘘は吐いてもいいかと、政宗はらしくもない笑みを浮かべて、小さく呟いた。
やがて醒める夢の中なら、戯れの約束も泡沫と消えるだろうから。











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確か、ゲームを1回見せただけだというのに「書いてくれ書いてくれ!」と新さんに無理を言って書いてもらったサナダテ。
ううう上手い!巧いんだこれが!ビビりました、正直。
もう何度読んだかわからないくらい読みました。
情景と話の筋が綺麗に合っているし、台詞の置き方がとっても丁寧…!
私の「バサラSS書きたいな」の原点です。
新さん、ありがとう…!