蟷螂の斧(2007/10/23 Log)




(勝った…)

呆然として、佐助は地の轟くような神川の流れを見ていた。
徳川三万八千の兵が、今、目の前で濁流に呑み込まれている。
(勝ったのか…)
流される葵の旗を見て、その実感がようやく佐助の背を伝う。そしてそれ以上に、圧倒的な兵力差に今更ながら膝が震えた。言うことを聞かない足を叱咤し、佐助は急いで上田城へ取って返した。
途中、徳川軍を城下まで誘き出すために兵を率いていた幸村を見つけた。
「急ぎ父上に伝えよ」
そう言った幸村の顔も、真田の圧勝にこれが足止めのための僻地戦であることを忘れたように昂揚していた。


「昌幸様!」
思わず大声を出してしまったが、そんなことに気を使うことも忘れ、草鞋を脱ぐ間ももどかしく昌幸の下へ向かった。
「昌幸様っ!」
「佐助か」
聞こえた低い声に佐助は慌てて膝をついた。顔を上げると、采配を手にした陣羽織姿の昌幸がいる。微笑したその表情に、勝ったという実感が、じりじりと指先へ喜びとして流れ始めた。声が震える。
「か、神川の、」
口の中が乾いた。佐助はそれを誤魔化すようにまた頭を下げた。
「徳川軍、神川に呑まれ被害は甚大、幸村様は城東の伏兵を伴ってこちらに向かっております」
「重畳。ご苦労であった」
喜びにぱっと顔を上げて、佐助は何も言えなくなった。
昌幸の表情は、城へ戻る途中で見た幸村のものとは正反対であった。
「昌幸様…」
昌幸は外を見たままだ。
「分かるか佐助、三万以上の軍の意味が」
「昌幸様はそれに三千で勝利しました」
「勝った、か…」

指先の痺れが、少しずつ引いていった。

窓から、風の入る音が聞こえるようだった。外の戦の喧騒が遠い。勝利に沸く兵たちの声もまた、微かだ。
そちらへ行きたい。
この目の前の大将が、あの大軍を相手に「勝つ」と言ってのけた。
そして、勝った。
だからこの人の口から、勝利以外の言葉を聞きたくなかった。世慣れない佐助にとっては、その言葉がまるで啓示のように響くのだ。
「時代が流れておる。我らはまるで…蟷螂の斧よ」

冷水を浴びせられたようだった。

どうして、この喜びの中でそんなことを言うのだ。
そう叫ぼうとして口をあけたが、息が詰まって声が出なかった。何か言えば、泣き出してしまいそうだった。
下を向いて唇を噛むと、大きな手が佐助の頭を軽く叩いた。
「…勝って見せようぞ」
静かだが、明瞭な声だった。
「駿府翁など、蟷螂の斧で十分よな」
「は、はい…」
顔を上げると、外へ向かう昌幸の後姿が見えた。
幸村たちが戻ってきたのだろうか、兵たちの勝利の歓声が大きく聞こえた。


「はいっ…」

その後姿にもう一度頭を下げると、弓懸に涙が染みていった。










病気のように昌幸公が好きです。orz